2011年07月02日

言葉が走る

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テサロニケ人への第二の手紙3:1
最後に、兄弟たちよ、わたしたちのために祈ってください.主の言が、あなたがたの所でもそうであるように、速やかに宣べ伝えられ、栄光を得るように、


言葉は命を含みます。

命が入っていない言葉は空しいです。

言葉は人だけが持っていて、他の動物は信号程度の鳴き声です。

言葉はその人がどういう人であるかを表します。

ですから言葉は人そのものでもあると言えます。

言葉は人格があるという意味で、言葉はパースンだとも表現できます。



言葉は神から来ます。

ヨハネの福音書の著者ヨハネは言います。

はじめに言があった。

言は神と共にあった。

言は神であった。



ですから言葉は神のパースンを表現しています。

そして言葉はパースンです。



冒頭のテサロニケ人への手紙で「主の言が、あなたがたの所でもそうであるように、速やかに宣べ伝えられ」とパウロの願いが表明されています。

「述べ伝えられ」と訳されたこの言葉はギリシャ語の原文では「走り」という言葉です。

主の言葉は走ります。

言葉はパースンです。

パースンは意志があり、感覚があります。

主の言葉は主です。

この言葉が人々に届くとき、人が運んだようですが、実は主が走ったのです。

聖書の言葉は生き生きとその息遣いが聞こえてくるようです。



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2011年03月07日

さあ、こちらへ

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マルコによる福音書第6章
30 さて、使徒たちはイエスの所に集まって来て、自分たちの行なったこと、教えたことを、すべて彼に報告した。
31 すると、イエスは彼らに、「あなたがただけで、ひそかに人里離れた所へ行き、しばらく休みなさい」と言われた。それは、出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。
32 そこで、彼らは舟で、ひそかに人里離れた所へ行った。
33 ところが、多くの人は彼らが出て行くのを見て、それと気づき、すべての町からいっせいにそこへ徒歩で駆けつけ、彼らより先に着いた。
34 イエスは舟から出て来て、大群衆をご覧になり、彼らに深く同情された.



マルコによる福音書6:14-29にバプテスマのヨハネが首を切られた記事があります。

マタイによる福音書14:12ではヨハネの弟子たちがイエスにそのことを報告しています。

イエスはそれを聞いて舟で人里離れたところに行きました。

イエスは福音の先駆者でもあり親戚でもあったヨハネのことを一人で思いめぐらされたことでしょう。それは喜ばしいことではありませんでした。

しかし、すぐ群衆がやってきて主は応対されました。

そこへ7節で遣わされていた使徒たちはイエスのところに帰ってきて報告しました。

彼らは人々に悔い改めを宣べ伝え、悪鬼を追い出し、多くの病人を癒し(13節)、驚くべき体験をイエスに聞いてもらいたかったと思います。

31節を読むと、弟子たちを休ませるために彼らだけをそっと群衆から離したようです。

イエスは自分が群衆の応対で疲れているはずなのに、優しい配慮をされたかのようです。

ところが実はイエスは群衆にわからないように、そっと弟子たちと一緒に舟に乗って行ったに違いありません。

34節でイエスも舟に乗っていることがわかります。

原文に「舟から」という言葉はありませんが、「出てきて」という動詞からわかります。

イエスはヨハネの殺されたことを静かに思うのもつかのまに、群衆に応対することですぐ人々に奉仕しておられました。

そこへ弟子たちが帰ってきましたが、彼らは疲れもありましたが、自分たちが体験した事柄で沸き立っていました。

彼らが報告した喜びをイエスは共にするために、弟子たちを舟に乗せました。

きっと舟の中で彼らの報告をさらにじっくりと聞かれたことでしょう。

主はヨハネのことや群衆のことなどありましたが、喜んでいる者たちとは共に喜び、ねぎらう心を持っておられました。

わたしたちは自分の気持ちが沈んでいると、喜んでいる人の報告を喜んで聞けない者です。

自分の気持ちが喜びでいっぱいだと、悲しんでいる人にそのときは一緒に心から同情ができず、そうできないで気まずい思いをするような者です。

忙しいときは、他から入ってくる知らせをまともに受け取れず、今はそれどころではないと言ったりします。

主は話を聞いて欲しい願いをもってやってくる人の気持ちを受け止められるかたです。



31節で「人里離れたところへ行き」とありますが、「行き」という動詞はギリシャ語原文にはありません。

英語では「come」と訳されています。

実はこの言葉は「デューロ」という副詞か間投詞で、「さあ、こっちへ(来て)」といった意味です。

わたしたちが主に何かを告げたい時、主はわたしたちのために「ここへ来なさい」と、わたしのため「だけに」時を過ごしてくださる主です。



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2010年05月20日

海に飛び込んだ(続き) ペテロを成就する

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主が復活された朝

マルコによる福音書は

ある若者が、墓に来ていた女たちに

次のように言ったことを記録しています。

 行って、弟子たちとペテロに、彼はあなたがたより先にガリラヤへ行かれる、と告げなさい。彼が告げておられたとおり、あなたがたはそこで彼にお会いする」。 (16:07)


マルコによる福音はペテロがマルコに語ったことをマルコが書いたと言われています。

ですから、この福音書は、一面ペテロによる福音書とも言えます。

他の福音書の記者は採用しない言葉であっても

ペテロには決して忘れられない言葉がそこにあります。


とペテロ」 と、主がペテロのことを覚えていてくださったことです。


主は3回主を否んだペテロを捨てていませんでした。

それを聞いたペテロは、その言葉を何度も反芻したことでしょう。



さてヨハネの福音書によれば

主は復活された日の晩

10人の弟子たちに現れました。

ペテロはそこで主にお会いしました。

そのときトマスはいませんでしたが、

8日後、ふたたび主は11人の弟子たちのところに現れました。

ここまでで、ペテロはすでに2回主にお会いしています。

3度否んだことで隠れる、という行動は取らなくなっていたと思います。

しかし、主はまた見えなくなりました。




主は40日にわたって神の王国について弟子たちを訓練されましたが、

2回現れた時点では

まだ、ペテロはどのように行動して良いかわかりませんでした。

生活の必要、食べ物もありませんでした。

ペテロは他の弟子たち6人と共にガリラヤの漁に行きました。

なぜなら、主は先にガリラヤに行っているという伝言を女たちから聞いていたからです。

これは単に生活のためだけでなく、

彼はガリラヤのどこかで見えなくなった主にお会いできると思い、

主を慕っていたしるしではないでしょうか?




ガリラヤの海で漁をしていたとき、

「主だ!」と聞いて、

彼は主がおられる岸辺に向かって、海に飛び込んだと思います。

彼は失敗を重ねましたが、

主を愛することで、主を慕うことで、なんら変わることがなかったでしょう。




そして、この3回目に主が現れたとき、

主のほうに、まっしぐらに泳いでくるペテロを見て、

主は幸せだったのではないかと、わたしは思います。

そのようなペテロであったので、主はペテロを取り扱うことができました。

3度、ペテロの愛について聞きました。

ペテロが一番聞いて欲しくないことを。





しかし、ペテロが自信をなくせばなくすほど

主はペテロに対して主の委託を大きくしていきました。

自分など、もう用いられるはずがないと意気消沈しているペテロに

小羊を養うように、

羊を飼うように、

羊を養うように

主の働きの委託を与えました。

ペテロに自信がなくなればなくなるほど、良かったのです。




主の務めにとって、用いられるリーダーの資格は

第一に、主を極みまで愛していることです。

第二に、自分に全く信頼しないことです。

主はこのことで、ペテロを成就する機会を用意されました。



(以上、偉そうなブログを書きました。ペテロ兄弟、ごめんなさい)
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2010年05月18日

海に飛び込んだ

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新約聖書回復訳での今日の言葉
http://www.recoveryversion.jp/read_List.php?f_BookNo=43&f_ChapterNo=21&f_VerseNo=1

イエスは彼らに言われた、「舟の右側に網を下ろしなさい.そうすれば、いくらか捕れるだろう」。そこで、彼らは網を下ろした.すると、おびただしい魚のために、彼らは網を引き上げることができなかった。
イエスの愛しておられたあの弟子がペテロに、「主だ!」と言った。シモン・ペテロは、主だと聞いた時、裸であったので、上着をまとって海に飛び込んだ。

           (ヨハネによる福音書 21:6-7)

ある集会でひとつの質問をしました。

ペテロは「海に飛び込んだ」と ありますが、どうして飛び込んだのですか?

9人のうち8人は、主に対して恥ずかしいので、海に飛び込んで隠れたのだという答えでした。

なぜ恥ずかしいかというと、一つは主を3度も否んだこと、

もう一つは、主が都にとどまるように言われたのに、生活のために漁に他の6人を引き連れて行ってしまったからです。


別のもう一人は、ペテロは主だとわかると一時でも早く会いたくて、岸辺に向かって海に飛び込んだという理解でした。


上着をまとったことについては、最初のグループの理解は、自分が裸であることが、主から見て魂が裸と感じたからだというものです。

それはちょうど、アダムとエバが罪を犯した後、主の語りかけを聞くと自分の裸を覆ったのと同じだということでした。

もう一つの理解は、主に向かって泳いで行き、主の前で裸では出られないから、すなわち、主に近づく前提で飛び込む前に上着をまとったというものです。



ギリシャ誤原文をみましたが、訳は正確で、「海に飛び込んだ」以外のことを示唆するような言葉は見受けられませんでした。

あくまで、聖書の文脈と、命の経験で受け取る以外にないようです。



さて、あなただったら、どちらの理解でしょう?
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2010年04月29日

イエスは涙を流された

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ラザロという人が死にました。

まだ病気だったころに、その状況はイエスに伝えられました。

しかし、イエスが来てくれたのは、ラザロが死んでからでした。

ラザロのために集まっていたユダヤ人たちは、イエスに対して自分の意見、見解を言い合っていました。

マルタは言いました、

「主よ、あなたがもしここにいてくださったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」

マリヤも主を見ると、足もとにひれ伏して、言いました、

「主よ、あなたがもしここにいてくださったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」

イエスは最も近しい人たちでさえ、ご自身がだれであるかを理解せず、大騒ぎし、嘆いているのを見て、心穏やかではありませんでした。

だれの言葉も主を平安にさせませんでした。

もちろん、主は神ですからいつも平和です。

しかし、主は人に関して一面穏やかではありません。

なぜなら、愛はそれが伝わらなければ、心乱れるからです。

主はわたしたちを愛してくださっているからです。




しかし、ある言葉が主に届きました。

主が、「あなたがたは彼(ラザロ)をどこに置いたのか?」 と言われた時、人々は

  「主よ、来てご覧ください」  (ヨハネによる福音書11:34後半)

と言ったのです。

この言葉により主は涙されました。



新約聖書のギリシャ語では泣くことについて6つの言葉があります。

ダクリュオー:ハラハラと涙を落とす
クライオー:声をあげて泣く
オデュロマイ:なげく, 悲嘆にくれる
スレノー:哀悼の慣例としての悲嘆
アララゾー:大声で泣きわめく(泣き女などが)
ステナゾー:悲痛が言葉にならない音声となって出る, うめく.
(「新約聖書ギリシャ語小辞典 織田昭編」 より)

ここの節での泣くことは、新約聖書でただ1回使われている、ダクリュオーです。



主の、人に対する心は並のものではなく、溢れておられることをここで感じます。

主の心に届く言葉が、人の口から出たとき、流れることのできなかった溢れたものが、表現されました。


   「主よ、来てご覧ください

この言葉が主を喜ばせました。

この言葉には意見がありません。

主に来ていただくこと、主に見ていただくこと

これが人の主に対する正常な愛の関係の言葉です。



しかし、すぐにまた、人の心ない意見が出てきました。

主の涙を見て、ユダヤ人は言いました、

「見よ、何と彼を愛しておられたことか!」

また、別の人は言いました、

「盲人の目をあけた方でも、この人を死なないようにすることはできなかったのか?」


これらはみな主の心を乱す、人の意見です。



わたしたちは主にただこう言うべきです。

   「主よ、来てご覧ください







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2010年04月01日

宣べ伝えることの愚かさ

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 この世が自らの知恵によって神を知ることがなかったのは、神の知恵によります.そこで神は、その宣べ伝えることの愚かさを通して、信じる者を救うことを喜ばれたのです。  (コリント人への第1の手紙1:21)

ギリシャ語では「宣べ伝えること」というのは宣べ伝える行為のことを言っているのではなく、宣べ伝えられた内容のことを言っています。

愚かさというのはその宣べ伝えられた内容が愚かであると言っているのではなく、その言葉を受け入れることができない人には愚かに映るということです。

聖書の言葉は人の思いから出ているのではなく、永遠の前から神によって計画された事柄を啓示しています。

啓示するというのは、隠されていたことを明らかにするということです。

聖書の言葉は先入観無しに、静かに内側に取り込むように、祈りをもって触れる必要があります。

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2009年11月25日

真理の中を歩く

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真理とはとてもむずかしい言葉のように受け取れます。

聖書のギリシャ語ではアレーセイアです。

この言葉は実際とも訳されています。

日本人にとって真理という言葉は「だれにとっても本当のこと」「正しい道」と取るのが多い気がします。

他には、「観念と実際が一致している」「ある観念内で矛盾がない」「仮説と実態が一致した」場合に真理と言ったりします。

また、宗教家にとっては、時間のテストに合格する実際的な正しい生き方みたいな意味になるかも知れません。

真理と聞くと、こういう理解や観念を日本人だと抱くでしょう。

実に言葉はそれまでに生きていて出会った人や本で触れた文化とで観念ができています。


聖書で、特にヨハネの書いた文書では「真理」がたくさん出てきます。

ですが、この翻訳に真理を採用したとき、本当に聖書の中の意味を表現できる言葉であるかは本文の文脈から注意深くたどる必要があります。

回復訳聖書はこの意味で正しい理解を得るのに助けになるフットノートがたくさんあります。

今日、助けを受けたのは、ヨハネの第2の手紙の中にあるフットノートです。

第2ヨハネ4節
 あなたの子供たちのある者が、わたしたちが父から受けた戒めのとおりに、真理の中を歩いているのを見て、わたしは大いに喜んでいます。

真理の中を歩くとはどういう事でしょう。

イエスはこのように言われました。

イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、実際であり、命である.わたしを通してでなければ、だれも父に来ることはない。(ヨハネ14:6)

ここで実際と訳されているのが真理であり、アレーセイアです。

回復訳のノートは次のように言っています。

1:42 神聖な実際、特にキリストのパースンに関するもの。御父はわたしたちがこの実際の中を、すなわち、イエス・キリストは神の御子であるという神聖な事実の実際化の中を、歩くことを命じられます。それは、わたしたちが御父の願われるように、御子をあがめるためです。

このノートによると、真理とは「イエス・キリストは神の御子であるという神聖な事実の実際化」ということです。

イエスは人でしたが、神の神聖な事実を実際化された神の子です。

ですから彼が真理です。

ヨハネは信者たちが「神聖な事実が人において実際化された方であるイエスと一つになって生きる」という生活を見て喜んだのです。

これがヨハネの言う、すなわち聖書が言っている「真理の中を歩く」ことです。

わたしたちは日本人が普通に考える真理の意味から自由にされて、聖書の言葉を読み、味わい、吸収する必要があります。
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2009年11月23日

成就される (カタルティゾー)

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カタルティゾーは「修復する」の意味

前回のブログ記事で、成就するの意味で、第3番目の「カタルティゾー」は「修復する」、「回復する」の意味であると書きました。

今日はそのカタルティゾーが果たしてその意味でふさわしいかどうかを見てみます。

「カタルティゾー」が「成就する」という言葉に訳されなかった他の場所を見てみます。

1) マタイ4:21
彼はそこから進んで行くと、別の二人の兄弟たち、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、彼らの父ゼベダイと一緒に舟の中で、網を繕っているのをご覧になった.そこで、イエスは彼らを召された

ここでは「繕っている」と訳されました。

これは網の機能をもとに戻すことです。


2) ローマ9:22
そして、もし神が彼の激怒を現し、彼の力を知らせようと願いつつも、滅亡にふさわしい激怒の器を、大いなる辛抱強さをもって耐え忍ばれたとしたら、

ここでは「ふさわしい」と訳されました。

これは「もともと滅亡に至ることになっていた」とも訳せます。


3) ヘブル10:5
こういうわけで、彼は世に入って来て言われます、「あなたはいけにえやささげ物を望まないで、わたしのために体を備えてくださいました

ここでは「備えて」です。

ここは理解がむずかしいと思います。

もともと人はその体も含めて、神を表現する存在でした。

しかし、罪が入ったために、体は神の目的のためにだいなしになりました。

人を神に贖うために、イエスは罪のない体を必要としました。

それは罪の人の贖いの代価として血を流すための体です。

この意味で、イエスはだいなしにされていない体を得たことになります。


4) ヘブル11:3
信仰によって、わたしたちは、宇宙が神の言葉によって組み立てられており、こうして、見えるものは現れている物から出て来たのではないことを理解します。
「組み立てられており」がカタルティゾーの訳です。

ここも難しいかも知れません。

そもそも宇宙が組み立てられたのは聖書の最初の書、創世記の第一章に記されています。

しかし、この記事は万物が創造されたそもそもの初めの記事ではありません。

すべての創造のはじめは、第1章の第1節だけです。

第2節では、通常翻訳されませんが、ヘブル語原文では、「そして」あるいは「しかし」「そこで」に当たる言葉があります。

これは、最初の創造の後に何かが起こったことを示しています。

それで、創世記の1章の2節で「地は虚しく、荒廃し、やみが淵の表面の上にある」ようになりました。

そして3節から地を回復する神の言葉があります。

こうして宇宙は神の言葉によって「組み立てられ(回復され」ました。


以上の個所以外の他の個所はカタルティゾーは「成就する」と訳され、意味はやはり回復する、修復するという意味に取ることができるでしょう。

このゆえに他の個所の一例をもうひとつ挙げると、そのカタルティゾーはやはり修復するという意味がよく通ります。

ヘブル13:21
ご自身の目に喜ばれることを、イエス・キリストを通してわたしたちの中で行ない、みこころを行なうために、あらゆる良いわざをもって、あなたがたを成就してくださいますように.その方に、栄光が永遠にわたってありますように
ヘブル人たちは時代が新約に移動したことを悟ることができないで、旧経綸の律法を守ることを捨てることができませんでした。

それゆえに新約の信者として、キリストのからだの肢体として平和の福音の中を享受して歩くことに遅れてしまいがちでした。

このことのゆえにヘブル人への手紙の著者は、彼らが正常な機能を果たせるように祈りました。
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2009年11月19日

成就される

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普通、わたしたちが使う言葉として「成就」とはどういう意味でしょうか。

成し遂げること、成功、達成という意味が多いのでは内でしょうか?

大願成就などという言葉もあります。


わたしたちが使う言葉でその意味がおよそイメージされるその内容は、ほぼ文化の影響です。

すなわちその言葉が使われている国での生活習慣の中で獲得した概念がその言葉の意味になっていることがほとんどでしょう。

ところが他の国からの言葉を、自分の国の言語として取り入れようとするときに、本来の意味が翻訳された国の文化の影響を受けます。

ですから、時代を超えた文書、他国からの文書の意味を取る時には、自分の育った文化の影響を受けているかもしれないことを注意するする必要があります。

わたしたちが手にしている聖書はギリシャ語で書かれました。ですから、日本語にしたときに注意が必要です。


さて、「成就」という言葉も、文脈から言って必ずしも上に挙げた意味ではないでしょうという例を聖書から見てみます。

1)マタイ8:17
 それは、預言者イザヤによって語られたことが成就されるためである.それは言っている、「彼は自らわたしたちの弱さを取り去り、わたしたちの病を担われた」。

ここでの成就はプレーローということばで、満たすという意味です。

預言者が語った言葉は約束だけ、すなわち入れ物であり、まだ、内容、実際はありませんでした。

しかし、主が来られたときこの約束の内容は満たされました。


2)マタイ18:19
 また、まことに、わたしはあなたがたに言う.あなたがたのうちの二人が求めるどんな事でも、地上で調和一致するなら、それは天におられるわたしの父によって成就される。

ここの成就はギノマイというギリシャ語で、生じる、起こるという意味です。

天にすでにあるみこころを、地上で祈る調和された人がいるなら、その事柄は天にだけでなく、地上でも生じる、起こるということです。

天にないことを祈っても難しいのですが、地上で、しかもどんなことでも一致する人たちが祈るなら、その祈りは聞かれます。


3)Uコリント13:11
 最後に、兄弟たちよ、喜びなさい.成就されなさい.慰められなさい.同じ事を考えなさい.平和でありなさい.そうすれば、愛と平和の神が、あなたがたと共にいてくださいます。
ここの成就と訳された言葉はカタルティゾーです。

その意味は、回復する、修復する、機能を戻すという言葉です。

コリントの人たちはクリスチャンですが、はなはだ脱線してしまった多くの問題を持っていました。

パウロは手紙を書いて、彼らの問題点を指摘し、供給し、彼らが正常な教会生活を回復するように顧みました。

最後に彼らを励ます言葉として、パウロはこの成就を根がいました。


4)ヨハネ17:23
 わたしが彼らの中におり、あなたがわたしの中におられるのは、彼らが成就されて一となるためです.また、あなたがわたしを遣わされたこと、あなたがわたしを愛されたように彼らを愛され

ここでの成就のもとの言葉はテレイオーです。

これは完成の意味で、目的に到達することです。

主イエスが十字架にかかる前に信じる者たちのために祈られた一の願いは、神のこころにある最終目的です。

それは互いにけんかをしないとか、取りあえず平和である基本条件の満たしの程度ではありません。

一であることは父、子、霊が一であるように完全な一を言っています。

そのような一に、神と人、人と人が一となるために、主は祈られました。


以上、4つの個所から「成就」を見ました。
翻訳の場合は言葉に関して、もとの意味を受け取れているかなとちょっと意識すると、新しい発見があることを経験します。



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2009年08月09日

祝福に満ちた神の栄光の福音

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テモテへの第一の手紙1:11
 このことは、祝福に満ちた神の栄光の福音にしたがっているものであり、わたしはその福音を託されているのです。

パウロは「祝福に満ちた神の栄光の福音」を託されました。

「祝福に満ちた神」というのはわたしたちを豊かに祝福してくれる神のことを言っているように受け取れます。

しかし、この「祝福に満ちた」というのは「幸いな」とか「祝福されている」が正確な意味です。

ギリシャ語原文では「マカリオス」で、新約聖書で49回使われていて、ここと6章15節で神について使っている以外はすべて人について使われています。

例えば、有名な「心の純粋な人たちは幸いである.彼らは神を見るからである」(マタイ5:8)などで使われている、「幸いです」「祝福されています」の意味です。

「祝福に満ちた神」は「祝福された神」、「幸いな神」と言えるでしょう。

神が祝福されているというのはおかしい感じがします。

しかし、人であるイエスは祝福された神、幸いな神です。

復活したイエスは幸いです。なぜなら彼は今や命を与える霊となって、わたしたちにご自身を分与できるからです。

彼は愛する選ばれた信者にご自身を照らし込むことができるので幸いです。

彼はご自身を信者に注入し込むことによって、信者の内容となり、信者たち、教会を通してご自身の栄光、すなわち表現を持つことができます。

また、「祝福された神の栄光」は神が表現された教会ということも暗示しているかも知れません。

神が教会の内容であり、神が教会の命であり、教会を通して神が表現される。なんという喜ばしい福音でしょう!
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